日記 2025年1月30日 小砂へ 笠間焼や益子焼と比較できない程の規模だが馬頭に小砂(こいさご)焼がある。徳川斉昭がこの陶土を発見し、水戸藩営御用製陶所の原料として使われたのが興りだと。美しい村と称するが寂れた感じの窯元を訪ねた。並んだ作品は多岐に、ピンクの色付けもあり、陶芸体験も可能だと。看板のあった小砂「霧ケ岳」で、そばを食べた。揚げたて野菜天ぷらも旨かったね。そして那須に向かった・・・。2025/01/26 製作中 展示室 並ぶ作品 案内板 ポツンと一軒そば処 もりそば✛天ぷら
ヨシさん、徳川斉昭公は水戸の偕楽園・常磐神社の千波湖側に藩営製陶所を建設し「七面焼」と言う焼物を作っていました。
そこで使われる陶土が小砂から那珂川を舟で運ばれたと聞いています。
今では栃木県になっていますが、江戸時代には馬頭や那珂川町あたりは砂金が産出した為に水戸藩の領地でした。
小砂の陶土にも多少砂金が含まれていた様です。
「七面焼」の名前は光圀のご母堂が日蓮宗の信者であったことから、それに因んで付けられたと聞いています。
山游亭さん、山梨県の南部に「七面山」と言う山がありました。 枝垂れ桜で有名な「身延山」同様で日蓮上人が修行した土地だと思います。 おいらも、人生さんも行ってると記憶していますが、七面の名の由来はここから来たのでしょうか???。
常陸の圀からさん、
That’s rightです。
水戸の偕楽園が造成される前は、光圀が日蓮宗信者であった妹菊姫や母久昌院の為に、ここに七面明神堂を建て、山梨の身延山から七面大明神を祀進したので「七面山」と呼ばれていました。
「七面焼」はこれに因んで命名されました。
現在は、この七面明神堂は水戸市見川の妙雲寺に移されて、今も七面大明神が大切に祀られています。