日記 2022年7月11日 長倉城跡へ 佐竹氏によって築城された長倉城は天保9年(1893年)松平氏が納めるようになったという。今でも城跡があると言うので訪ねてみた。御前山蒼泉寺で車を降り、鬱蒼(うっそう)とした林の中をゆっくり登って15分、竪掘りに囲まれた中庭に着く。本丸、大手門らしき跡地が認められていると言うが、遺跡らしきものは何もなかったね。帰り際近くに 四季彩館があり、温泉で汗を流し寛(くつろ)いだ・・・。2022/07/11 長倉城跡入口 蒼泉寺 城跡までも見晴しは悪い 長倉城郭跡に到着 四季彩館から長倉城跡方面を望む 露天温泉
長倉城ですか、戦国時代初期のころ佐竹義重公が、下野の那須氏攻めに烏山へ攻め行った時に
使用した街道と言われている辺りだと思います。高部城(館)辺りを通過した気配はないようなので、この地域が佐竹氏にとって重要な地点の一つであったと思われます。
那須烏山市東南の那珂川を渡って、付近の原っぱで喧嘩して他のこと、数回に渡り侵攻しましたが、結果出ず、どちらかと言えば佐竹の負け戦だとか。退却時には那珂川で多数の人と馬が
溺れて亡くなったそうです。今の露師亜もそうなる前に退却した方がいいですがね。松平公の
末裔が長倉におられるますが、相当の地主さんでした。
おっとっと。野口城は991年平安時代に川野辺一族が築城した城だ。長倉城よりも前だぞ。
元技術部の課長さん、年号が間違っているようです。 1893年は既に明治時代です。明治26年なので佐竹氏も松平氏もすでに居なくなりました。 私が生まれたのは1965年ですので70数年前に長倉城が出来たと言うのは誰が考えても難しいと思います。 常陸の圀さんが正解です。
ご指摘ありがとうございます。天保9年は1838年の間違いでした。
「天保9(1838)年、水戸徳川斉昭の命により松平頼位が長倉城跡の直下に長倉陣屋を設け明治維新まで続いた」とありました。
人生さん、誤解されてるようなので長倉城の解説します。 文保元年の1317年に長倉義綱によって築かれた山城ですよ・。 それ以前は野口氏によって野口城がありましたね。 野口城は那珂川と緒川の境に築いていたよ・。 皆さん勘違いしているのですが、石垣で作られた城は俺っちからしたら近代の城です。 よって、長倉城は標高130mの山城で石垣はありません。 江戸城や姫路城などの石垣で築く城は近代城ですね。日本百名城や続百名城を散策してると少しながら知識を得られます。 良い城旅を続けてくださいね・。
ヨシ、5月の第13回文書館カレッジで勉強したが、鎌倉時代から長倉は常陸太田と宇都宮を結ぶ道沿いに位置し、那珂川渡河地点にも近いため、往来河岸や物流・交通の要所であった想像します。写真からは往時の様子は想像出来ませんが、下野の軍勢を迎え撃つ砦の機能を備えていたと思います。