軽キャン旅の行き先を決めたのは「さばの缶づめ宇宙へいく」を読んでからです。若狭高校が開発した経緯(いきさつ)が面白かったのです。よりは、会社の先輩が若狭出身、母校でもあり感動したと、先生に手紙を書いた程なんです。この度、 若狭方面に行くと言うと、なんと!  故郷の紹介文を送ってきてくれたんです。2022/05/15
さばの缶づめ宇宙にいく
若狭高等学校
鯖の缶詰め
焼き鯖すし
鯖のへしこ

鯖街道
明通寺
レインボーラインより

    我がこころの故郷“若狭”

私の故郷若狭小浜を訪ねる度に、今もほっと心が洗われる思いがする。

一番思い出に残るのは、実家が海に近く、夜には二階からイカ釣り船のランプがよく見え、寝ていると海鳴りが聞こえたのが思い出される。夕方は毎日海辺に行き、小浜湾に真っ赤に沈む美しい夕日を見るのが楽しみだった。

また、子供の頃の懐かしい思い出の一つに、毎年8月盂蘭盆に子供だけのお祭り“地蔵盆”があった。丸石のお地蔵様を祠から出して海で洗い、絵の具で彩色を施し、夜明け前に山で取った5メートルぐらいの青竹に、“南無地蔵大菩薩”と書いた色とりどりの短冊を飾りつけ準備完了。夕方からは、鐘と太鼓を打ち鳴らしながら「まいってんのー、まいってんのー」「なーむじぞーだいぼさつ」と町の衆のお参りを声張り上げて誘いお賽銭を上げてもらう。集まったお賽銭やお供え物は、翌日子供全員で(3歳ぐらいから小学6年生まで)均等分配する年に一度の楽しい行事があった。特に生家のあった地区は、化粧地蔵の宝庫として有名らしい。
その行事は今も続いている。若狭小浜にはこんな昔が今も生きている。大切なものを忘れがちな人の心を、今も生き生きと甦らせてくれるそんな故郷である。

さて、若狭の特色はと言うと。若狭は、日本最大の琵琶湖の日本海側、地図で言えば京都の北に位置する。若狭は“わかされ”→“分か去れ”ともいい、越前今の福井方面に向かう人が、敦賀から背に若狭を振り捨てたことが語源らしい。かの有名な松尾芭蕉や西行法師も皆、敦賀を経由して若狭を背に福井の方へと行脚した。
芭蕉が“奥の細道”の道中、敦賀で詠んだ「小萩散れ、ますほの小貝小さかずき」の句は有名である。若狭は、近江・丹波・丹後と隣り合わせだが、北陸道の本道からも外れ、京に行くには深く険しい峠越えをしなければならなかった。
敦賀から小浜に向かう途中には、標高400mの景勝地梅丈岳があり、頂上からは海と湖が楽しめる。日本海と三方五湖である。2005年には自然豊かでラムサール条約に登録されており、三方五湖は、海水、汽水、淡水と塩分が異るため、四季折々に湖は五色の青色が見られる。
この湖で旨いのは、油の乗った天然ウナギと大粒のシジミだ。

一方、“若狭の小浜”は、二つの半島に囲まれた穏やかな入江に沿って開けた古い城下町で“小京都”や“海のある奈良”とも呼ばれてきた。
幕末の勤王志士橋本左内・梅田雲浜や解体新書で有名な杉田玄白などが、私の生家の近くで生まれている。

方言も同じ福井県でも、敦賀を分岐に越前と若狭では全く異なる。若狭は、大阪弁と京都弁のミックスした軟らかくのんびりした方言である。例えば、「ぎょうさん、ええもん、おおきんね」とは、「たくさんのいい物をありがとう」を意味する。
小浜の町名も、京都の町の名称がほとんど、例えば・京極・貴船・清滝・大宮など。
若狭特に小浜がいかに京文化の影響を受けて来たかがわかる。
小浜の名産には“若狭塗箸”がある。全国の8割を占めており、食文化を支える伝統の匠の技が光る。江戸時代、浪人の内職で作られ、かのシーボルトも若狭塗箸を愛用したとか。木や竹を材料に、海底をイメージして、貝殻、卵殻、松葉を入れながら、漆を10数回塗り重ね研がれて出来る独特の模様の工芸品である。私も10年来同じ箸を愛用している。2008年には、バラクオバマ大統領誕生時(同じオバマ)、高級塗箸を進呈している。
また、私の小学時代の同級生は、若狭塗箸のお店を東京で手広くやっており、かの巨人軍松井選手が大リーグヤンキース時代、折れたバット(材料はあおだも)をもらい受けて箸を三膳作り、一膳は長嶋元監督の病気快癒祈願に一膳は松井選手に進呈、一膳は自分のお店の神棚に飾ったと言っていた。

若狭の食文化
若狭は古く万葉集では、“御食(みつけ)国(くに)”と呼ばれ、奈良の朝廷に海産物や塩を献上していた。
京の俳人“与謝蕪村”は、「万葉や通いなれたる若狭人」と、若狭と京都の食のつながりを詠んでいる。
さば街道”は、小浜から熊川(街道の宿場町として今も見所が多い)を経由して、滋賀県の朽木(ここは織田信長が浅井・朝倉勢に挟み撃ちにされ、這々の体で逃げ帰った道)を通り、京出町に至る72㎞(京は遠ても18里)の若狭街道をいう。
小浜から山越えして運ばれた鯖が京につく頃には丁度よい塩加減になり、京では若狭ものとして親しまれ、今も京の食文化には若狭の魚が重宝されている。
名物の“へしこ”は、糠・麹・つけ汁でつけ、沢庵のように重石で圧して1年じっくりねかせ発酵させておいた越冬食で、酒の肴やお茶漬けが実に美味い。その上、この1年つけた“へしこ”を、今度は米麹に2週間つけ込むと、“鯖のなれ鮨“となり、甘みが出てご飯がすすむ絶品の味となる。私の妹から暮れに送られて来るこれらの珍品が、正月の大きな楽しみである。
また,竹の皮で包んだ厚みのある“鯖寿司“もまた旨いが、子供の頃は朝浜で竹串にさした姿焼きの“焼き鯖”は、ショウガ醤油で食べるのが一番、たまらなく旨い。
冬の味覚“丁稚ようかん”は、昔地元の若者が京に丁稚奉公の修行に出かけ、正月休みに帰郷したおり、雇い主にお土産として母親が手作りの羊羹を持たせたのが始まり。伝統の水で溶かした寒天をとかし、白砂糖・こしあん・隠し味の塩を入れ炊き上げ、羊羹缶に入れ固めて作る。冬の名物であり炬燵で食べるのとこれが旨い。
夏の味覚は、“水まんじゅう”(地元特産の葛で淡いこしあんを包み、冷水につけ固めたもので、軟らかくツルリと一口で食べると夏の暑さが吹っ飛ぶ。

伝統行事や名刹
奈良では春を告げる行事として有名な、東大寺二月堂の修二会の“お水取り”は、若狭からの“お水送り”から始まる。
これは、毎年3月2日の深夜、神宮寺・鵜ノ瀬で1200人が松明を焚く中、山伏が「香水」と呼ばれる水を川に注ぐと、地下を通り10日かけて奈良・東大寺二月堂の「若狭井」にその水が湧き出るとの事。奈良時代から続く神事である。
今一つ忘れてならないのは、若狭は戦国以来、幾多の戦火を浴びたが、古くから仏教が盛んな土地柄でもある。人口3万人足らずの小浜には、130もの寺院がある。櫛の目に入り込んだ谷々に藤原期や鎌倉期古くは奈良時代の古典仏教が根をはやしており、当時の名作大日如来や先手観音などの国宝仏像や名刹が数多く残っている。中でも千年の歴史ある“明通寺”は、平安時代に坂上の田村麻呂が創建した薬師如来・本堂・三重塔がある名刹である。
住職の中島哲演さんは、私の高校同級生のお兄さんである。
この故郷も,今や京・大阪方面に電力を供給する原発の巣(若狭には敦賀、美浜、大飯、高浜と4カ所もある)に囲まれている。
近い将来は新幹線が敦賀さらには小浜経由で京都まで開通するという。自然も気候も厳しさが異なる京は更に近くなるが、古くから京との近さを感じさせる文化をもち、穏やかな気質の若狭は余り変らずにいて欲しい。
おやつはイモで暖房は火鉢だった子供の頃から比べれば、豊かで便利になったのは確かだが、ほっこりする時間や空間が少なくなった気がしてならない。

“若狭”が、波しぶきのかかる磯貝をいつまでも拾うことの出来る“我がこころの故郷”であり続けてほしいものである。